ビョーン・シュタムペーシュ

(Teddy Hultberg 作家) – translation by Yasuko Nakai

ビョーンは対象そのものに重きを置くアーティストです。

彼自身は彫刻家でもあり画家でもありますが、他のアーティストが数多くいるところを飛び出して、そこにはとどまらない傾向があります。彼のアートは、人々を結びつける役割を担い、何かを起こしそうな予感をはらんでいるのです。

シュタムペーシュは、常に自分自身に問いを投げかけています。すでにそこにある物事や世界にとらわれて、新しいものを創造することができるでしょうか、アーティストが新しい作風を生み出すことができるでしょうか。シュタムペーシュの作品も、一見はっきりとしたフォルムと色彩を帯びているように見えます。しかし、はっきりと目に見える側面とはただの錯覚にすぎません。

シュタムペーシュが作り出すものはいったい何かと尋ねられたら、途方もなく困ってしまうでしょう。本当の姿をみせながら、見る人の目を欺くとでも言えばいいのでしょうか。

ピザの入った四角い箱が、作品を見る人との相互作用を生み出す空間にあっという間に早変わりするように―――期待にこたえて予想を裏切るのです。

アートにおいて、材料とはどんなものでしょうか。アーティストが巧みにまばゆく見せているものの要素を見極めなければなりません。アーティストが何を探し求めているか、よく聴く必要があります。もしかすると彼らは材料を名付けられること、何かの文脈の延長線上に置かれることを嫌っているのかもしれません。

酒杯に似たシュタムペーシュの水差しは直立できないため、ノズルがまっすぐに上を向いたままの状態になっています。哲学者プラトンは、作者が本質のないものを作ったり彼らの真の姿を描いたりする時、それは罪になるといっています。シュタムペーシュの作品はプラトンの指すものを具現化しようとしているようです。

「シュタムペーシュのアートは、何かが現れるという類のものではないし、何かに例えられるというようなものでもない。それが大切なのだ。」

――― ホーコン・レーンバーリ

シュタムペーシュがやろうとしていることがわかる手がかりが他にあるでしょうか。彼のアートは、表向きはありふれているように見えて、刹那にその姿を翻してしまう、そう言い切ることができるでしょう。

「濡れた石けんのように、シュタムペーシュの作品はいつも手からつるりと逃げていこうとする。決してつかめない。」―――ラーシュ・O.・ エーリクソン

アーティストは、見慣れた形を提示して、不思議な気持ちを起こさせる作品を作ります。同時にシュタムペーシュの作品は、独特の美しさを持ち、スウェーデンのスモーランド地方を思わせるようなものであふれています。

彼の作品に出あうと、どこか落ち着かない気持ちになるはずです。あつい熱を帯びた作品は、常識に従うことを否定し、幼い子どもが無邪気に質問する様子とどこか似ています。見る人の不安や警戒心を解きほぐしていく、とでもいえばいいのでしょうか。

シュタムペーシュが作品とする対象は、満たされていない不確実性やそれによる鼓動を身を以て経験するために、定義されることを徹底的に拒みます。定義されていないことを超越し、漠然とした感覚を彼の作品とともに感じるということです。対象とその他の境界を見えなくすること、それは全てのアーティストが願い、夢見ることではないでしょうか。